私は父を14歳のときに亡くし、それから母の背を見て育ってきました。
私の性格は一般的には社交性があるとは言えないだろう。
簡単に言えば「人に興味があるが、人が苦手」。
この性格は社会生活を営んでいるうちに、多少は改善されたが未だに初対面の人や二人きりになると何を話せばいいのか不安になるし、パーティーなど大人数ではしゃぐイベントは正直言うと苦手です。
噂話に興味津々、人の不幸ほど面白いものはない
私の幼少期に記憶している母の姿は、玄関のドアについているのぞき窓から近所の様子を伺う姿。
悪口を言っていないか? 何の話をしているのか? 噂話が気になって仕方がない様子だったが、その姿を見るのが私は嫌だった。
井戸端会議のときや大人同士で話をしているときに子供の私を紹介する際も、こう言え、ああ言えと先回りして話をされるのが嫌で、しかも母が覗き見ていた大人たちが側にいることが怖くて、いつも母の影に隠れていた記憶があります。
「人に興味があるが、人が苦手」という私の性格は、この母の様子を見て影響を受けたと思います。
母は人を妬むことにかけては、私が呆れるぐらいひどいものです。特にお金に関する嫉妬は相当なものです。災害などで義援金が支払われるニュースを見ては「もったいない。私が欲しいわ。」、バラエティ番組をみて賞金をもらう姿を見ても「もったいない。私が欲しいわ」とよく言いますが、困ったものです。
そして人の不幸は大好きです。近所の噂話から拾ったネタをよく笑いながら話してくれました。
私の住む町内には友達が数人居たが、とびきり中が良いというわけではなかった。母が覗き見ていたように、他人とはどこか距離をおいていたように思います。
他人は影で自分を悪く言っている・・・かもしれないと無意識のうちにそう思いこむようになっていました。
必然的に私は幼少の頃から一人で過ごすことが多く、外出しても近くの野山へ一人で入って散策することが好きだった。
自宅では絵を描いたり、空き箱やガラクタを集めて何かを作ったりし、野外では昆虫採集や自然観察、またひたすら一本の道を道なりに歩き続けるということをしていました。それが今の私を支える感性を育んでくれたのだと思っています。
命より大事な「世間体」
14歳で父を亡くしてからは、母は以前より強く「世間体」を気にするようになっていきました。
高校受験のときは、公立に行かないと近所の恥になる、笑いものになるとよく言われたものです。
その頃になると私も自我が強く芽生えていたので、母が気にする世間体を無視して新聞配達のアルバイト(貧乏くさいからいい顔をしなかった)で小遣いを稼いだり、自宅ではひたすら創作に励んでいました。
中高と本当の友人と呼べる仲間とも出会い、楽しい毎日を過ごしていましたが、やはりある一定の距離を無意識にとってしまうという性格は治らなかった。
20代でグラフィックデザイナーの道を歩む決意をしたときは、「そんなヤクザみたいなわけのわからん仕事」と母に言われたものです。母の定義では「公務員」か「ヤクザ」しか社会には存在していないようでした。父の死後、母一人で二人の子供を育ててきたのだから、そう考えてしまうのも仕方のないことかもしれません。
大阪の会社に仕事が決まると、私は京都から大阪で一人暮らしをはじめました。やっと自由になれたという気分でワクワクしていたことを覚えています。
「死の準備」を「生きがい」に変えた母
現在も母とは離れて暮らしています。月に数回実家に帰りますが、その距離感が二人の関係を保つにはちょうどいい感じです。
今の母は人生の終焉を迎える準備をすることに「生きがい」を感じているようです。実家に置いていた私の思い出の品々や作品もかなり捨てられてしまいました。
母のネガティブな愚痴の数々もブラックジョークのようなものだと今では聞き流すことができています。まともに相手をすると私の前向きな気持も奈落の底に突き落とされそうですから。
母にはこれからも意地悪な頑固婆さんとして、長生きしてもらいたいものです。