大鳥神社(滋賀県甲賀市)~朱色が鮮やかな楼門、大岩が点在する社叢に古代から続く信仰の深さを知る~

大鳥神社(滋賀県甲賀市)~朱色が鮮やかな楼門、大岩が点在する社叢に古代から続く信仰の深さを知る~

大鳥神社はTwitterで情報発信されていいるので、日々の様子を見ているうちに行きたくなったのでやったきました。
町のはずれの細い道をいくとやがて広い敷地の境内が見えました。その先にある朱色に輝く立派な楼門も見えます。
すぐに境内に入る前に、少しその周りを散策してみたくなりました。
これは神社の成り立ちや、地域信仰に触れたいと思ったときに神域の風土や空気を五感で感じることで、深く知ることができるのではないか?という思いから私は意識的にやってきます。

目次

蛍飛び交う小川と古い石橋

神社の境内に入る鳥居の南側から、なんとものどかな田舎の風景がありました。
少し石段を下りると御斎田があり、やがて小川が流れていたので、そちらのほうに向かって歩きます。
小川には朱色に塗られた橋があるのですが、その隣にずいぶん古そうな石の橋がありました。
石造反橋(太鼓橋)というそうです。
時代劇にでも出てきそうな古い石橋です。とても風情があって周りの風景に溶け込んでいました。とても和む空間です。初夏には小川で育ったゲンジボタルが飛び交うそうです。
しかし、柵があって渡ることができません。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: m6915-1280x815.jpg
大鳥神社の参道にある石造反橋(太鼓橋)

周辺は広場になっているので、日差しが厳しい日は木陰もあって休むのにはちょうどいい。参拝が終わったら後で休むことにして、大鳥神社の鳥居をくぐります。

無垢の木の鳥居の向こうに朱色が鮮やかな楼門が見える

参拝者を和ませる神社の心遣いと、大鳥を思わせる拝殿の姿

太く立派な木製の大きな鳥居だが、何の木を使っているのだろうか。表面の木肌模様がとても不思議な感じで、楠木だろうか? たしか厳島神社の鳥居も楠木でできていたはず。

鳥居を通過してすぐそばにある手水舎へ。花が綺麗に敷き詰められて、とてもきれい。こんな飾り付けがされる神社は珍しい。
今はコロナ感染症対策で多くの社寺が手水舎を使えないようにしています。大鳥神社では、それでも参拝する人を和ませたいと、花を浮かべるようになったとか。なにか素敵な心遣いです。

まっすぐ北側へ歩くと、美しい朱色の楼門があります。まさに神域と現世の結界です。
楼門から中に入ると、立派な拝殿がありその先に本殿が見えました。

大鳥神社の楼門
鮮やかな楼門の奥には対象的な木の古色が神域の厳格さを思わせ、身が引き締まります。

広い境内に対して、拝殿は少し小さく感じますが、鳥が翼を広げたような華麗な屋根のラインが見事です。
ここで巫女の舞が披露されたら、さぞかし美しい光景だろうなぁ。

社殿の周囲は得体のしれない空間が広がる社叢

意外に思ったのですが、これだけの大きな規模の神社なのに、参拝する人は少なくとっても静かです。その静けさがとても心地良い。

拝殿の後ろに回って、祝詞殿から本殿を伺います。玉垣で囲まれているので、本殿に近づくことはできませんが、玉垣の隙間から見る本殿の姿は、凛とした佇まいで重厚な社でした。

本殿を参拝した後は、社殿の周りにある森を散策します。山を背にしているから、とても深い森が広がっています。
主に高くそびえ立つ針葉樹を見上げていると、とても気持ちが良い。そして四方八方に伸びた枝ぶりが見事な広葉樹が今にも動き出しそうで神々しいパワーを感じました。

森の中で気になったのは不規則に並べられた大きな岩。昔は庭園だったのだろうか? 水が流れていたような印象があり、さらに人工的に岩を並べたような感じもします。それが昔からあるものなのか? ちょっと謎です。

飛躍して考えるなら、磐坐信仰のような原始的な祈りの地だったのだろうか。

●大鳥神社(おおとりじんじゃ)の概要

所在地/滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野783
御祭神/素盞鳴命(すさのをのみこと)
相殿神/大己貴命(おおなむじのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)

由緒/
陽成天皇の元慶六年(882)平安初期に伊賀国阿拝郡河合郷篠山嶽より大原中に勧請され、その後当地に移し祀られ、その当時は、比叡山延暦寺の別坊が36院あったといわれ、大原山河合寺と称された。

祭礼は坂本の日吉神社に準じていたと伝えられているが、大原祗園は神輿渡御に用いる千枚張に記されているとおり応永22年(1415)に始まったとされる。

また、織豊時代(安土桃山時代)に入っては、社号を河合祗園社とも大原谷の祗園社とも称し、牛頭大明神河合社牛頭天王といわれ現在でも氏子の人々から(てんのうさん)とも呼ばれ親しまれている。

後陽成天皇文禄4年(1595)、当社の花奪神事に豊臣秀吉よりお墨付きをいただいたと伝えられている。

【 花奪神事(はなばいしんじ) 】
7〜8歳の踊り子9人に奪い数基が各字毎に組まれ、青竹の杖を持った数十人の若衆が、を取らせないよう青竹でたたき合う神事である。 奪ったは神棚に飾ると疫病を免れると信じられてきた。

元禄2年(1689)、第五代将軍綱吉の生母桂昌院より、永世山年貢五石八斗を当社の修繕料として寄付された。

明治元年令達により、旧大原荘の大の字と鳥居野の鳥の字を合わせて大鳥神社と改称、明治9年10月村社になり明治18年2月に郷社に昇格、明治41年4月に神饌幣帛料供進社に指定された。

後柏原天皇大永元年(1521)、2月拝殿が改築され、また境内に架かる石造太鼓橋は延享元年(1744)の架設で石工は京都の杉本文右衛門の作である。

また旧大原村九地区に祀られていた神々は、大正元年に境内社に合祀され、大正5年4月に本殿を残し拝殿の一部と楼門、回廊、神楽殿、社務所、河合寺等を焼失、大正9年に氏子総意の力によって復興し大原の産土神として崇敬信仰され現在に至っている。

さらに平成14年7月には、文化財保護法により国の登録原簿に、復興した拝殿を始め7棟の建物が有形文化財として登録された。

各SNSも運用しています。
フォローをお願いします!

この記事をシェアして共有したい方は下記からどうぞ

記事についてコメントしたい方は↓

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次