安波賀春日神社(福井県福井市)~戦国武将朝倉義景が信奉した神社~

安波賀春日神社(福井県福井市)~戦国武将朝倉義景が信奉した神社~

治暦四年1068年 神道家吉田兼右が諏訪大社に勅使として向かった途中、霊夢により京都の鬼門鎮護として春日四所の社殿が建立されたのが始まりと伝えられている神社。

市道から細い脇道に入ってしばらく歩くと安波賀春日神社の鳥居が現れます。
しかし住宅に挟まれているので、場所がわかりにくく、何度か通り過ぎてしまった。
GoogleMapsも活用していましたが、一筋違う道を示していたのでさらに迷ってしまいました。

安波賀春日神社(福井県福井市)の鳥居
目次

鉄パイプに囲われた痛ましい拝殿の姿

一戸建ての大きな住宅に挟まれる形で参道が山の方へと続いています。なんだか家の庭先に神社の鳥居がデ~ンっと立っているような変な感じがします。

鳥居をくぐると苔むした欲しい階段が続きます。
じっとりと湿っている苔と石は大変滑りやすいので油断できません。
高い杉や檜などの薄暗い社叢の中を九折になった階段を上っていきます。

安波賀春日神社(福井県福井市)

登りながら見上げると、木々の枝から日が差し込んできてとても綺麗だと思った。神様を感じるときってこんな一瞬かもしれません。

石段を登ったところにまた1つ鳥居がありました。
見ると少し痛んでいるのか、鉄骨で倒れないように支えてありました。

安波賀春日神社(福井県福井市)
自然のままの迫力のある鳥居

鳥居の先に安波賀春日神社の拝殿と本殿がありました。
しかし、拝殿は丁度屋根を修理しているところで、鉄パイプの足場が周囲に建てられていて、残念ながら全貌を見ることは叶いませんでした。
でもちゃんと修理されていると言う事は、それだけこの土地の人々に愛されている神社なんでしょう。

安波賀春日神社(福井県福井市)
足場が組まれて修理中の痛ましい姿
厳しい環境を耐えて建つ木造建築は迫力がある

恐ろしい朝倉義景の怨念を鎮めるために祀られた瀧殿社

神社からさらに続く階段を少し上ると、小さな社が2つ建つ敷地がありました。

1つは赤い社ですが、お稲荷様をお祀りされているようです。
もう一つは大国主神を祀る大地神社です。
これらの小さな社に飾られている「笏谷石狛犬(しゃくだにいしこまいぬ)」は、おかっぱ(禿)頭と、背中にぺったり張り付いた紐のような細い尾が特長で珍しいものだそう。

さらに山のほうに階段は続いているようなので上ることにしました。この先は鹿よけの網の柵をくぐって、一度境内を抜けてから登ります。

10分ほど上ると小さな広場に出ました。その奥にひっそりと小さいながらも立派な社殿がありました。
扁額を見ると「瀧殿社(たきどのやしろ)」と言う名前がついています。

瀧殿社(たきどのやしろ)
瀧殿社(たきどのやしろ)
瀧殿社(たきどのやしろ)

こんな山の中なのになぜ瀧なんだろうか? とても不思議です。
なんでも朝倉氏最後の5代目当主義景の分霊を祀ったものだそうですが、死後は瀧殿権現(瀧の神様)になったという縁起がこの神社に残っているそうです。

朝倉義景が身内の謀反で自害した際、一つの遺言を残しています。

『落城ノ時謂従臣曰存念旨趣有之間予ガ遺骸ヲ一乗ノ滝ヱ沈ムベシ悪霊トナリテ富国ノ国主五十代ノ内ハ障碍ヲナシ可申シトノタマエリ』

「滝殿権現縁起」抜粋
(現代語訳:義景が落城の時、家臣に“私の遺骸を一乗滝へ沈めよ。悪霊となってこの国(越前国)の国主を50代に渡り害を与える”と申した)

義景は以後越前国の国主になる者を、必ず不幸にすると言って自害し、その言葉通りに不幸が何代も続きました。

しかし、福井藩 7代藩主松平吉品(よしのり)が、代々不幸が重なるのは朝倉義景の祟りだとどこからか聞きつけ、その対策として朝倉氏の怨念除去とお家の繁栄のため、一乗谷にあり当時は廃れていた古社である春日神社を再興します。

瀧殿社(たきどのやしろ)

春日神社は平安時代に創建され、朝倉氏も戦勝祈願所とするなど、篤く信仰していました。その敷地内に朝倉氏を祀る滝殿社(たきどのしゃ)を併せて建立し、社の下には御神体として義景の馬具の一部を埋めたと伝わります。

その後、松平家は一門同様に朝倉氏も敬うようになりました。春日神社に伝わる「滝殿社縁起」もこのとき書かれました。

縁起では、春日神社の神主が朝倉義景の霊と対面し、国を呪うというのをなだめ、きちんと敬いますので、国の守護神となってくれるようお願いしたと記されています。

瀧殿社(たきどのやしろ)

●安波賀春日神社(あばかかすがじんじゃ)の概要

所在地/福井市安波賀町15-13
御祭神/天兒屋根命、武甕槌尊、経津主命、比売大神
境内社/滝殿社、大地神社、稲荷神社
由緒/当社は、社伝によると、後冷泉天皇の御代、治暦4年(1068)の創建。帝都東北鬼門鎮護のため建立されたと伝えている。
同年5月13日、当社勧請、卜部兼忠を奉幣勅使として、宜命の儀があった。以来後冷泉院勅願所となった。
当時、当社は王城の鬼門であったため、社領三万有余石を寄せられ、越前国中第一の大社として、毎年勅使の参向が行われた。
元暦年中(1148~1185)、斎藤実盛の弟、実季が、春日絵を奉納した。
文和2年(1353)2月、朝倉広景が社殿を修補して神事能を挙行した。
永享4年(1432)浦松左大臣重盛の女より願文があって、華表、鰐口、戸帳等を寄進された。
その後、国主、朝倉孝景(英林)が、深く当社を崇敬して、数多くの社領等を寄進し、祈願所とした。
いよいよ国中の崇敬するところとなり、社運隆昌したが、文明年問遂に兵火にあい、孝景(英林)が、更に再建した。
しかしついで、天正の乱が起って谷中大火災の際に、神主、吉田定澄も、御神体を奉じて難を江戸に逃れたという。
松平氏治国の時に至って、松平吉昌が、元禄13年(1700)に社殿を再建、境内社たる滝殿社も造営された。
この時、中納言、藤原実種の奏聞あって勅額を賜っている。
同11年、実種は、時の諸公に筆を取らせて三十六歌仙の額を奉納され、正徳2年(1712)10月、松平吉邦は社領50石を寄進した。
以後、松平氏の崇敬篤く、毎年社参があって、上下の尊崇も極めて厚かったが、明治維新以後、社領が廃止され、足羽の清流に臨んで、古杉うっそうとして、建築も古雅なる社であったが、次第に衰えた。
明治5年11月に郷社に列し、同8年6月に県社に列せられた。
昭和63年に社殿・社叢・滝殿社が、市文化財に指定された。
(「福井県神社庁」公式サイトより)

各SNSも運用しています。
フォローをお願いします!

この記事をシェアして共有したい方は下記からどうぞ

記事についてコメントしたい方は↓

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次