油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)~謎が多い油日大神を祀る神社~

油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)~謎が多い油日大神を祀る神社~

油日神社は、鈴鹿山系油日岳の麓の森に鎮座する立派な神社です。
集落のはずれにある鳥居から境内に入ると、清々しい森の空気に包まれます。
立派な楼門を抜けると境内はとても静かで、聞こえるのは野鳥たちの声と、蝉の鳴き声のみ。

目次

神々しい社叢の中に日本唯一の油日大神

奉納されたごま油の一斗缶

楼門の裏側には、山積みにされた食用油やゴマ油の一斗缶がありました。これらは食用油関係の業者が奉納したものとのこと。

そして緑が濃い自然環境の中で、苔むした屋根を持つ立派な社殿がありました。
近づいて柱をよく見ると、日に焼けた建材が渋い木の色になって、なんだかとても美しく感じます。

油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)
油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)

最初に屋根のラインがとても美しい拝殿にお参ります。拝殿は桃山時代の建立とされ、入母屋造の檜皮葺です。金属製の屋根にしていないところが良いです。

油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)
油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)の拝殿から
油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)の拝殿から
この中に油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町)の本殿

本殿はさらに立派な木造建築ですが、中に近づくことはできず、玉垣の隙間から覗きます。

本殿のすぐ近くには、高野槙の巨樹が迫力満点にそびえ立っています。
玉垣で囲まれているから、側まで近寄って根本まで見ることができないのが残念ですが、離れてみてもその迫力は充分伝わります。

油日神社は、もともとこの背後にそびえる油日岳をご神体としていたというから、この土地は古代から神域とされていたのではないだろうか?

油日大神は、油の火から万有始動の根元神と伝えられ、諸事繁栄発展の大本を司られるという。古来より諸願成就の神として衆庶の尊信あつく、又油の祖神として業界の崇敬があつめられています。

そして境内で目を引くのは、本殿の両側に伸びる回廊です。
これも重厚な木造で、かなり立派です。

境内を囲むように設置された回廊

一通り建造物を堪能したあとは、境内の周りの社叢を少し散策しました。
玉垣の中にある空間よりも、神様を近くに感じられるのはやはりこの山がご神体だからでしょうか。

●油日神社(あぶらひじんじゃ)の概要

所在地/滋賀県甲賀市甲賀町油日1042
創建/伝・用明天皇朝(または天武天皇朝)
本殿の様式/三間社流造
御祭神/
主祭神/油日大神(あぶらひのおおかみ)
東相殿/罔象女神
西相殿/猿田彦神

由緒:
創祀年代不詳。用明天皇または天武天皇の時代の創建と伝えられる。

油日岳の山頂に油の火のような光とともに油日神が降臨したことから「油日」の名がついたと伝えられる。

また、聖徳太子が社殿を建立し油日大明神を祀ったとの伝承もある。

国史の初見は、『日本三代実録』の元慶元年12月3日(878年1月9日)条に「近江国の正六位上、油日神に従五位下(の神階)を授く」という記述である。『延喜式神名帳』に記載される「甲賀郡 川枯神社二座」と見る説もあるが、従いがたい。

本殿には「正一位油日大明神」と記した明応2年(1493年)の棟札があり、建立年代が判明する。甲賀地域随一の名社であり、中世には甲賀武士が聖徳太子を軍神として崇めるとともに「甲賀の総社」として信仰されていた。

長らく神仏習合が行われており、当社の神宮寺として油日寺(金剛寺)があったが、明治時代になって神仏分離が行われると当社は油日寺と分離し、油日寺はその名を神宮寺と改名して独立した。しかし、当社には仏教関係の文化財が多く残っている。

1906年(明治39年)7月に県社に列格し、1911年(明治44年)、村内の10社を境内社として合祀した。

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