デジタルカメラには、画像の補正機能が自動的に働くようになっています。
現実に見えている感動的と思える風景というのは、カメラが自動的に脚色して人に見せている映像で、実はリアルな風景ではない。プログラムが人の好みに合うように画像を補正してくれているのです。
また画像編集ソフトには、現実にあるものをその部分だけ消去して、周りの風景となじませて無いものするという便利な補正機能があります。
とても便利でありがたい機能ですが、嘘の画像を作り信じさせるという悪い機能でもあります。
それと同じような補完機能が、私たちの脳に備わっていて、視神経を通じて脳に送られてきた画像を無意識のうちに脳で補完して、それで正しい画像だと理解をしています。
たとえ画像の一部が盲点で隠れていても、欠けていても保管してくれます。
これをアモーダル(Amodal)補完というそうです。
創造主を創造したのは人間
仏教が伝来する前の日本人は、目に見えない得体のしれないものを、自然環境や自然現象から肌身に感じて、それを怖れ敬うことで精神的なバランスをとって暮らしていました。
今は学問が発達しているから、たいていのことは理由付けができますが、まだわからないことの方が多かった時代では、「それは狐の仕業だ」とか「妖怪の仕業だ」とか、無理やりにでも理由づけをして納得させてきたのだと思います。
暮らしの中で上手に「目に見えない存在」と折り合いをつけていたのでしょう。
その中で、日本人はたくさんの目に見えない八百万の神々を創造していきました。
「怖れ」に対して怯えることをせずに、「敬う」ように人の脳内で変換されたときに「神」という虚像が現実の存在として暮らしの中に取り入れられたと思っています。
仏像が人の感性を貧しくする
ところが偶像崇拝の巨大な文化が大陸からやってきて、状況が一変してしまいました。
仏教の伝来とともに日本やってきた仏像の存在。
今まで目に見えないものを怖れ敬うことで精神的なバランスを暮らしのなかでとってきたものが、人の姿をした仏像が目の間に現れたことで人々は他力本願に依存するようになっていきました。
本来日本にあった信仰ではないので、納得できない内容もあったり、難しいお経を聞いてチンプンカンプンだったはずですが、目の前に仏像があると「ありがたい」という気持ちが脳で保管されて疑問を持つことをやめてしまいます。
これを洗脳というのかもしれません。洗脳は目に見えるものと、言葉を巧みに組み合わせれば、ほとんどの人が影響を受けてしまいます。
盲目になった脳が、良いように補完してしまうからです。
遺伝子に記憶された日本人の精神性が完全依存を許さない
大陸から伝来した仏教も、日本人が遣唐使として大陸へ渡り学んで持ち帰ってきた仏教も、そのままの状態で受け入れたわけではありません。
日本に古来からある自然信仰や八百万の神々の信仰と、持ち帰った仏教に取り入れて日本独特の仏教を創造していきました。やがて仏像にとらわれない仏教として、禅宗が登場したのも自然の流れだったのではないでしょうか。
記事についてコメントしたい方は↓