もともと日本人には八百万の神の信仰があり、あらゆるものに神が宿ると信じていました。
だから神格化した山や巨樹や岩盤に限らず、身の回りのものに至るまで神様の依代として考えています。アニミズムからはじまり、やがて神道へと確立されていきました。
仏教の伝来も外国との政治目的の理由だったと思いますが、日本が簡単にそれを受け入れられたのも八百万の神の一つとして仏という存在を考えたからでしょう。
仏教伝来に関する話はとても複雑なので他の文献にお任せするとして、ここでは「仏像」という造形物について語りたいと思います。
布教活動には形があったほうがわかりやすく、信頼されやすい
神道では基本的に神様の姿を描いたり、彫刻物としたりすることはありません。現存している神像や絵画は仏教人気の影響を受けて対抗して創造されたといいます。古事記という物語は絵のモチーフにしやすかったので、様々な芸術家が神の姿や世界観表現しました。
でもそれは神道本来の姿ではありません。神は姿かたちを持たない存在ですから。
しかし、信仰を布教するためには何か目に見えるものがある方がいい。
目に見えない存在を信じながら生きるのは、原野で独立して生きている環境では良いのですが、村以上の群衆で生活を共に送るようになると精神的にも様々な事象に翻弄されるようになり、形ある対象を求めるのは心理的に当然の流れだと思います。
仏像の原点であるギリシャ彫刻に観る神々の姿も、神の存在を「現実にあるもの」としてリアルに感じさせるために作られました。それでもギリシャの神像は、その存在意義(人知を超えたもの)から人間離れした美しい体型やポーズで表現されることが多く、究極の人体の理想の姿を芸術家たちは競って追い求めました。
最初はそんなギリシャ彫刻の影響を濃く受けたガンダーラ仏を見ると、人間を統治し強く諭す姿やリアルさよりも「穏やかな印象の造形」がよく見られます。
どれも優しい微笑みをしています。
仏教がインドから東の大陸に伝来していくと、その姿は造形的に洗練されて、人々にとって親しみやすく、身近に感じる仏像になりました。
さらに大陸の仏像が聖徳太子によって日本に伝来すると、仏教の広がりとともに多くの職人たちが中国の仏像を真似て作り始めます。
遣唐使船で大陸へ渡り、発展した仏教の宗派を学び経典を日本に持ち帰ったとき、その教えを職人たちに説いて仏弟子として宗派の教えを象徴する仏像を制作させます。
職人たちは仏師と呼ばれ、自らも僧職にある者も多かったでしょう。
社会と信仰の関わり合いの中で仏像の造形は巧みに変化していった
信仰は政治にも利用され、貴族社会や武士社会の中で信者の好みに応じて仏像の造形は日本独自の変化をたどります。
仏教が信仰されはじめた平安時代では、穏やかな造形が主だったものが、権力者の好みに応じてがっしりしたたくましい姿へと変わります。武家社会になると猛々しく写実的な造形が多くなり、庶民の求める仏像の姿からかけ離れていきます。大陸の造形的な影響は、完全に見られなくなりました。
しかし仏像造形は同時に二極化していきました。貴族や豪族や武士など特権階級のものをパトロンとして制作する仏師もいれば、庶民に近く寄り添って仏の意味を伝えながら旅をして仏を彫る仏師がいました。
運慶のような写実的な仏像も素晴らしいですが、円空や木喰のような素朴で親しみのある仏像も美しい。
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神仏切り絵師 秀多としての仏像造形とは?
2019年までの私の仏像の姿とは、神格化された象徴のようなイメージでとらえていたように思います。信仰の対象とは自然と一体であるからして、人を超越した存在として描いたほうが自分が求めている神仏の姿に近づくと考えたのです。
しかし、どこかに微妙な違和感を感じていました。それがどこからくるものなのか? よく自分の中で問答を繰り返し、結局それは自分の技巧が未熟であるからとか、技術が向上すれば解決するだろうと結論に至っていました。
2020年のはじめ、新型コロナウイルスによる世界規模の感染症蔓延の中で、その「違和感」がなんであったのかがはっきりとわかりました。
技術的なことではなかった。
改めて自分に問いかけました。
「その神仏像は、助けを必要とする人々の心身に寄り添っていますか?」
私の創作の原点はここにあったのだと、あらためて気が付きました。
今、助けを必要とする人の心に寄り添い、手に触れて支えと感じてもらえるような作品を作ろう。
それが、秀多の神仏切り絵の形なんだ。