日本人は折に触れて祈ります。キリスト教など一神教の祈りとは少し違うかな。
子宝を授かるようにと安産祈願、病気を治る健康祈願、災難から逃れるための厄祓い、良縁を求める縁結び祈願、交通事故に合いたくないと車のお祓い、希望の学校や就職ができるようにと合格祈願と、どこの神社にどういうご利益があるのかを調べて人は一番ご利益があると伝えられている神社を参拝する習性があります。
近年は御朱印帳を持ってスタンプラリーのように神社巡りをするのが流行していますが、何か機会がないと行かないというのではなく、つねに神様を身近に感じるきっかけになるのならそれも良いだろうと思っています。
もし日本古来の宗教が一神教だったなら、神様は忙しすぎて願っても叶えてくれない、ご利益が自分に回ってこないと不満を感じて今ほどの信仰心は無くなっていたかもしれません。
八百万の神といういろいろな役割を持った神様が存在することで、あっちの神様こっちの神様と数打てば当たる方式で参拝することも可能です。神様の役割分担もはっきりしていることや、人間の数以上に神様が存在していることで自分の願いが叶えてもらいやすく、守ってもらっているという実感が湧くのでしょう。
そもそも人間は、なぜ神様という存在を欲するのだろうか?
人間は弱い。そして怖がりである
古代から西洋文化が浸透するまで、日本人は自然とともに生きてきたと言ってもいい。人々の暮らしは自然の営みとともにあり神の恵みと考え、また暮らしを脅かす自然現象を神の祟りと恐れました。
高度成長化時代を経て今やインターネットや人工知能AI、バイオテクノロジーなど人が望む「より安全で便利で快適な暮らし」という目的のため進化を止めることはありません。
人は動物的な本能として安全で安心した暮らしを望むもの。しかしこの地球上で生きる限り完全な安全と言うのはありえない。
進化のエネルギーの源な何か? それはより良い暮らしを求める「欲望」よりも、はるかに強い「恐怖」「不安」です。
人間は昔から自然現象に恐れ、自分以外の人間に恐れ、生物に恐れ、隣人に恐れ、常に何かしら不安がありました。
心理的な恐怖や不安は、どれだけ心療内科やヒーリング手法が発展しても、どれだけ癒やしの道具や機器が開発されても完全に無くなることはありません。今ある恐れを克服できた時点で新たな恐れが生まれるものです。
だから、自分を脅かすものや現象にあふれた環境だと認識してしまうと気が狂ってしまいそうだから、人は神と言う存在を想像し、自分たちを救うものとして祈ることを始めたのではないだろうか?
自分たちの暮らす環境のあちらこちらに、たくさんの神様が存在することを知ると安心感が生まれます。
そこで心のバランスが取れ、穏やかに暮らすことができるようになります。
欲望、煩悩が無限に広がり続ける社会だから求められる祈り
人の欲には限界がありません。
安心して暮らしたいというのも1つの欲ですが、人よりも出世したい、人よりも儲けたい、人よりも勝ちたいなどの欲もあれば、欲望のために人の道を外れた犯罪に走る場合もあります。
人間は自分が行き過ぎた行為に走るときでさえ祈り、願望を達成しようと神頼みをするのです。
人は自分の欲に翻弄されて、いつの間にか祈りの真理が置き去りにされた状態で日々を暮らすようになります。
現代の社会では物と情報に溢れて、強欲にまみれ、神聖な祈りは自らの貪欲な願望を満たす行為でしかなくなってしまったのではないか?とさえ思えます。
これも恐怖であり不安を感じる社会現象です。
こんな社会だからこそ何のために神様が存在し、神様にどう接するべきなのかという祈りの真理を思い出さなければいけない。
昭和~平成と心を育て、令和の時代に生きる私は自分の切り絵作品を通じて、祈りの真理を一人でも気づいて欲しいと願って作品を作っています。