骨置神社(和歌山県北山村竹原)~

骨置神社(和歌山県)

地図を見ているときにふと目に入ったのは「骨置」という奇妙な名称です。どういう由来でこの名前が付いたのだろう? 字面だけ見るととても怖いのですが、好奇心に押されて現地へ行きました。

目次

歴史の悲運が創建のきっかけに…

北山村竹原の集落を通る国道169号線から、少し外れた山の中に骨置神社がありました。

参道の入り口に由緒書きがあったので読んでみました。
神社の祭神として祀られている護良(もりよし/もりなが)親王は後醍醐天皇の皇子で、早くから鎌倉幕府の討幕運動に加わり、元弘3年(1333)の建武の新政では征夷大将軍に任ぜられました。室町幕府成立後は足利尊氏と反目しその座を追われ、尊氏の弟の直義の命で殺害された悲運の人物です。
そして、その護良親王には竹原八郎の娘との間に若君が生まれましたが夭折。それをきっかけに骨置神社が創建され、その御霊を祀っています。

竹原八郎とは熊野の土豪で、護良親王を守っただけでなくいち早く勤王の兵を挙げて伊勢を攻め、建武中興で目覚ましく活躍した人物といわれます。

緑一色の境内に映える朱色の社

苔に覆われた古く細い階段を上っていくと、石の鳥居があります。
その先には緑一色の苔の絨毯に覆われた境内がありました。
なんて美しいのだろう・・・踏み込むことにちょっと躊躇するぐらいです。
境内の奥には、玉垣に囲まれた朱色の社がありました。

境内はびっしりと鮮やかな緑の苔に覆われていました。

境内を見渡した時に、社叢の片隅に朱色の朽ちた木材が積まれているのを発見しました。よく見ると、かつての鳥居のようです。
朱色の鳥居が老朽化して、平成10年に石の鳥居に置き換えられてようです。

壊されて朽ちた鳥居

本殿も建て替えられたのだろうか、新しく朱色も鮮やかです。

濃い森の中に映える朱色の本社

悲運の若君の骨を置くと名付けられたのは「墓」という意味があり、無念さより、神として祀ろうと思った村人の優しさを感じました。

■骨置神社(こうずじんじゃ)の概要

●御祭神/祭神は、護良親王・小大塔ノ宮

●由緒/
元弘元年九月笠置陥り、護良親王は難を熊野に避け北山に至る。
この地の豪族竹原八郎宗親、戸野兵衛良忠等直ちに親王を迎え、四方の要害を固め、竹原の地を根拠として画策すること半年、元弘二年六月命旨を奉じ伊勢方面に進出、六波羅を驚かす。諸国の武将これを聞き、蜂起して遂に北条氏は亡び建武の中興が成った。
讃良親王、竹原八郎の娘をお側に召され、その間に若宮を出生されたが幼くしてなくなる。土地の人尊びて骨置神社としてお祈りする。

●縁起/
元弘元年(1331年)、南朝の本拠地であった傘置から難を逃れて熊野に渡った後醍醐天皇の皇子、護良親王をお守りしたのが、北山村竹原の豪族、竹原八郎だった。

護良親王を迎えて竹原の地で策を練り武力を固めた竹原八郎は伊勢方面に出陣して六波羅を驚かし、これを機に諸国の武将が蜂起してついに北条氏は滅びたのである。

護良親王は竹原八郎の娘を召されて若君が出生されたが、幼くして亡くなってしまった。土地の人々が若君の御霊を尊びおまつりしたのが、骨置神社である。

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