神仏の姿を借りて人間を表現

神仏の姿を借りて人間を表現している

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私は神仏を切り絵で表現していると言ってるけど、本当は「神仏の姿を借りて人間を表現している」なんです。

仏様は密教の曼荼羅を見てもわかるように、実に多種多様な姿をした仏様がたくさん描かれています。阿弥陀如来や釈迦如来、観音菩薩など柔和な表情をしたものから、怒ったような表情の明王たち。さらに象や狛犬など動物の頭部を持つものや、天狗や鬼のような姿をしたものまで実に様々。
そして神様と聞いて誰もがイメージするのは、大国主命や伊邪那岐・伊弉波、天照大神など古代衣装をまとった日本の神から、イエス・キリストやマリヤ様など西洋の神様の姿でしょう。
でも、もともとは神様も仏様も目に見えない何やら自然界の大いなる力を持ったエネルギーの存在として認識され崇められてきたものです。姿かたちなんて無かったのです。
今ある姿は、過去の人々が想像力を働かせて造形した存在です。

共通するのは、人間の姿に近いということです。
なぜ人間の姿に近づけたのか?
あまり奇抜な姿にすると、信仰の対象として私達の暮らす世界からかけ離れた存在になってしまいます。人に寄り添い、暮らしを共にする存在でなければならないのです。だから人間の姿に近づけていったのではないでしょうか。

しかしそれだけでは単なる人形に終わります。信仰の対象として尊厳を保ち、信者を引きつけるためには、神仏の存在をより際立たせる存在が必須です。それが悪魔であったり鬼の存在です。
悪魔や鬼はそれこそ人のように手足があるものの、おぞましく邪悪なデコレーションを施されて創作されました。

自分が良い人間であることを実感するときは、邪悪な鬼の存在や悪魔のような行動を知り、今の自分と比較することで「私は悪い人間ではない」と自覚できたときです。神仏の姿は信仰の対象であると同時に自分もそうありたいと願う気持ちの現れです。

鬼や悪魔もまた人間なのです。
強欲や嫉妬、怒り、など邪悪な側面を誰もが少しは持っています。決して純度100%の善人なんて存在しないのです。

こうしてみると神仏、鬼悪魔も人間そのものだと思えてきませんか?
私はそう思えてならないのです。
神仏は決して崇高な存在ではなく、人間そのものです。
鬼悪魔も決して邪悪な存在ではなく、人間そのものです。

人間を描きたい・・・私は常にそう思って創作に取り組んでいます。
でも人の姿を絵で表現すると肖像画のように妙に生々しくなってしまい、私はなんだか恥ずかしくて直視できなくなります。
だから神仏や鬼悪魔の姿を借りて、人間の姿を描いています。

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