自分が良かれと思って行ったことであっても、他人から見れば不愉快なことを行っているかもしれない。

自分が良かれと思って行ったことであっても、他人から見れば不愉快なことを行っているかもしれない。

一般的によくいわれる「正しい行い」とは何だろう?
「正義」とは何だろうか?
良いことや悪いことを判断するのは政治家?裁判官?警察官?学校の先生?近所の人?親兄弟?誰に委ねればいいのだろう?
またその判断は何を基準にしているのだろう?
そもそもその判断をした人間は100%清廉潔白で正しい人だと言えますか?
法律や宗教は正しいのか?

目次

観る角度によって判断は変わる。固定するのではなく遊びを残すといい

人の行いは見方を変えれば、正にもなり悪にもなります。
検証もしない上っ面の知識や経験だけを正悪の判断材料にすれば間違いが起こりやすい。
そもそも人間は間違いを起こしやすい動物です。

頑張って頑張って人のために良かれと思って尽くしていても、その人に対し暴言を吐く人がいます。暴言を吐く人は、その人独自の判断基準を持っているのだと思うけど、決してその人を見ない。正面から向き合わずただ他のところを睨みつけ、汚い言葉を吐く。その人にとってはそれが正義なんだろう。

人は弱い。そして愚かな面も多々あります。しかし尊いものが魂に宿る。
人は自分の愚かさを知り、弱さを知っているからこそ、長い年月をかけて正悪の真理を追求してきました。
正悪とは? 最初は誰かが思った些細な疑問だったかもしれない。
またはどこかの賢者が語った童話の中で伝えた真理だったかもしれない。その童話を大切に大切に子々孫々と言い伝えながら、言葉が持つ真理を熟成させてきたのではないだろうか。

こんな情報が多すぎる世の中では、伝えられてきた正悪の真理も濁ってわからなくなってしまう。
人は常に原点に立ち帰れる心の拠り所を持ちながら、先人が伝えてきた正悪の真理を基本に判断にしなければならないのではないかと私は考えます。
現代に溢れる過度で装飾された言葉や情報を、そのまま安易に受け入れてはいけない気がします。正悪の判断基準は過去の真理にあります。また、正悪ははっきり区別できないものだとも伝えています。

私は自分の切り絵作品を通じて言葉が持つ真理を紡いでいきたい。自分でも現代生活の中で忘れそうになる、いや誤解してしまいそうになる言葉の真理を切り絵で表現したい。
私は、とても弱い人間の1人に過ぎないのだから修行して学ばなければならないのです。

自分が良かれと思って行ったことであっても、他人から見れば不愉快なことを行っているかもしれない。

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