神域の森の息づかいを感じる境内
私が特に好きな寺の一つである神宮寺は、一度境内に入るとそのパワーに圧倒されます。
創建は714年で、若狭国一之宮・若狭彦神社の神願寺として泰澄大師の弟子・沙門滑元によるものです。
神社と寺が一体だった頃の名残が、そのまま残っています。
寺の境内の入口にある山門の足下には、丸い自然石が敷かれていました。よく見ると河原の石のようです。これは鵜ノ瀬で採取された石かもしれない。
山門をくぐって拝観料を払って振り向くと、芝生が敷かれた広い境内にポツンと本堂が建っています。
鎌倉初期には、七堂伽藍二十五坊を誇る名刹として繁栄
靴を脱いで本堂の中に上がると、建材のあちこちに小さな穴があいていた。シロアリだろうか?補修されたところもあちこちにあるけど、木材を組んでとても丁寧な仕事をされています。変に金属やパテで補修していないところがいい。
中は薄暗く、格子状の柵から奥に鎮座する仏像を拝むことができます。格子にはたくさんの鈴が参拝者によって括り付けられていました。
本尊の薬師如来の左右に日光菩薩と月光菩薩、そのまわりに十二神将の姿が見えました。
私一人しかいなかったため、とても穏やかな気持ちで長い時間を仏たちと対話ができました。
異形の巨樹の迫力がすごい!荒ぶる神々の姿がそこにあった
奈良東大寺へのお水送りの神事が行われる閼伽井(あかい)のそばに小浜市指定天然記念物になっている幹周/6. 4m、樹高/18m、樹齢/約500年のスダジイの巨樹があります。
タコの足のように地面をうねうねと這う根っこから上に見上げていくと、空を掴みかからんぐらいの大迫力の枝ぶりです。
私個人が思っていることですが、神宮寺の魅力は本堂裏に広がる森にあると言えます。
厳しい自然環境に耐えてきた樹木の姿を見て欲しい。
神仏の依り代となる異形の樹木達を見て感じて欲しい。
若狭神宮寺の概要
住所/福井県小浜市神宮寺30-4
開館時間/午前9時~16時
拝観料/400円(2021年)
■若狭神宮寺の由来(配布された栞から引用)
若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ(都)が訛って宛字されている。
この地方は若狭の中心で白鳳以前からひらけ、この谷は上陸した半島大陸の文化が大和(朝鮮語でナラともいう)へ運ばれた最も近い道であった。
それは対島海流にのってきて着岸した若狭浦の古津から国府のある遠敷(おにふ=朝鮮語ウォンフー「遠くにやる」が訛った)や根来(ねごり=朝鮮語ネ、コーリ「汝の占里」が訛った)と京都や奈良が百キロほどの直線上にあることである。
この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、部へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤磨公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表わし地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建された。
翌年勅願寺となったその秋には、紀元一世紀頃、唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。
これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
又、神願寺の開山赤磨(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に托され、後東大寺開山良弁僧正となられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁憎正を助けて東大寺を完成し、さらに二月堂を建て、お水取り行法を始められた。
その若狭井の水源が白石の鵜之瀬であることから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜ノ瀬へお水送り神事がある。
■若狭神宮寺の略歴
・和銅7年(714)
元明天皇7年、若狭彦の直孫・和朝臣赤麿公鈴応山神願寺創建
・霊亀元年(715)
元正天皇勅願寺となり、若狭彦神を根来白石より迎え神仏習合の寺となる
・延暦17年(798) 桓武天皇の勅願で七堂伽藍再建
・永保3年(1082) 雷火により本堂・本尊焼失
・寬治5年(1091) 本堂再建、仏像新造
・延宝元年(1239) 七堂伽藍廿五坊再建
・宝治2年(1248)
若狭彦神社の別当寺となり神宮寺と改称
・天文14年(1545) 雷火により本堂焼失
・天文22年(1553) 本堂再建
・寛文2年(1662) 大地震により本堂・仏像破損
・延宝3年(1675) 本堂・仏像修理
・明治4年(1871)
神仏分離令により若狭彦神社・遠敷明神社の社殿破壊
御神体の差し出しを命じられるも身代わりを出し、御神体は秘蔵