信仰とは何だろうか?
私は信仰とは、遥か昔の古代人たちが厳しい環境下で生きる中で、自己防衛本能が生み出した産物だと思っています。
様々な状況下で不安や恐れという感情から逃れる方法は、心に支えとなるものを持つこと。つまり信じるものを支えにすること、それが信仰になったと考えます。
依存しない存在、心の杖として良いように活用するもの
キリスト教やイスラム教のような一神教では、人間の精神的な弱さから「依存」することにつながりやすく信仰する人によっては危険な面もあるかもしれません。
日本の場合は、古くから多様性を容認する柔軟さをもって信仰と付き合ってきました。現代では状況が少々異なるかもしれませんが、「万物にはそれぞれ魂が宿る」「モノに限らずコトや現象など森羅万象全てにそれぞれを司る神が宿る」という八百万の神の精神が子々孫々と受け継がれてきています。
だから基的には「自分」をしっかりと意識しながら、器用に信仰を暮らしの中に活用しているのが日本人だと思います。
絶対的な存在に「依存」しきるのではなく、支えとして「活用」する行為が信仰だと知っている民族なのです。
人間の想像や感覚を超越したものへ
私は日本人の信仰に歪みが生じだしたのは、仏教伝来からだと思っています。
アニミズム的な信仰にはなかった「あの世」という思想が、懸命に生ききることを放棄しても救われる場があると伝えたわけです。
集団的な依存体質、他力本願の蔓延です。
仏教本来の教えからすこしズレて広まっていったのは、人々の心が疲弊していた社会情勢の中で登場したからという原因が大きい。
厳しい自然界で自立して共に生きてきた人間が、信仰の歪みによって時間をかけて少しずつ弱っていきました。弱さが依存社会を作り上げていきました。
2020年から世界を脅かしているコロナウィルスも、この社会が依存しあう弱い社会であること、人はお互いが依存しあう弱い存在になってしまったことを表面化させたように思います。
依存社会では、はみ出したものを絶対に許さない。依存のコミュニティを汚されたくないから、思想で攻撃するのをやめない。
・・・・結果、思いやりを忘れた歪んだ人間が生まれる。
でも自然界では、歪みは必ず矯正されるようになっています。人間も自然界の存在であることに変わりなく、その影響を受けます。
人間の想像や感覚を超越した自然界の矯正作用が働いていることを、人類は知らなければなりません。
依存ではなく、生きる支えという信仰の基本や、八百万の神々の思想を思い出してお互いの歪みを治す時期にあるのではないだろうか?
私は少しでもその助けになるようにと、視覚的な面で貢献できるかもと切り絵を制作しています。
それが私の信仰です。