地蔵菩薩は、お釈迦様の修行中の姿を表していると言われています。
私はこれまでいろいろな仏像や、仏画で表現された地蔵菩薩像を見てきました。
その中で感じていたことがあります。
どの像を見ても、すでに悟った姿をされている、という疑問です。
元々が拝む対象として存在しているので、その目的のために作られたものだからそうならざるをえないのもわかります。
不安な表情をしている仏像を拝みたいとは、誰も思わないからです。
だからこそ、本当の地蔵菩薩の姿を表現したい、表現しなければならないと思いました。
地蔵菩薩は、仏教の開祖である釈迦の若き日の修行時代の姿を表していると言われています。
自分の知らない世界へ、天の声に導かれるまま歩み、あらゆる疑問に正面から対峙しながら修行を積んでいきます。
普通に考えれば、とても大きな不安や恐怖との戦いもあったと思います。
私にとっての地蔵菩薩は、まだ仏と言うには修行が足りない人であり、道に迷いながらも祈りを通じて学びを深めていく人です。
どちらかといえば、人間に近く、未熟な仏様。
未熟さを表現するために、少年っぽいあどけなさを残しています。
地蔵菩薩像の眼差し通じて、祈りを共有し、共にこの世の営みを学びたい。
目には見えないけれども、常に共に存在するものとして、作りました。
宗教的な意味はありませんが、私には地蔵菩薩はこんな姿に見えているのです。